ホテルに戻り、預けていた荷物を受け取ると、次の宿泊先・ジャングルビーチ・リゾート(Jungle Beach Resort)へと徒歩で向かった。ナイハーンビーチの背面を通る小さな車道は、 プーケット・ヨットクラブまで辛うじて延びているといった様相で、そこで行き止まりのように見えた。
が、実際には、エントランス前のロータリーから海側に伸びた、敷地内の遊歩道のような小路が、本当の行き止まりであるジャングルビーチ・リゾートへの道だった。この区間は徒歩で20分ほど、 またはバイクで行くしかないとの事で、仕方なく、水着のまま大きな荷物を抱えた日本人兄弟はテクテクと歩き出した。
右手に続くホテル側の急斜面と、海面から5・6メートル立ち上がった左手の防波堤との間に挟まれたような小路は、途中まで舗装されてはいたが、ホテルの敷地を離れた辺りからは、 砂と砂利だけの田舎道が延々と続いていた。
ショルダーバッグを抱えた清彦はともかく、浩之はキャスター付きスーツケースを引きずりながら行進したが、そのキャスターの車輪はもはや用を成していなかった。
まるで、 手首にロープを巻かれ荒野を馬で引き摺り回される西部劇の主人公のようで、悲鳴が聞こえてきそうだった。この道の先に民家以外の建物があるようにはとても思えなかった。 稀に傍らをバイクで通り過ぎる、腕にTATOO を入れた西洋人の存在だけが、<この先に何かある>という拠り所にはなったのだが。
そのうち、かなり続いた登り坂を上がりきってみると、左下の方に海が広がっていた。出発地点では5・6m下に見えた海が、今や15mは下方に見える。
二人は一度歩を止めて、しばし休憩した。その丘を境に道は下りとなり、惰性で歩を進めているうちに傾斜が緩くなりだし、両脇に木立が目立ち始めた辺りで、
やっと看板に出くわした。
「Jungle Beach Resort」
矢印の方に進んだ先に、フロント棟と思しきバンガローが目に入った。
「なんか、海っていうより、森の中って感じだよなぁ。Jungle Beach じゃなくて、これじゃ Jungle Jungle だよな。どこに海があるんだろ?」
浩之が言った。
「確かになんかリゾートっていう割に華がないよねぇ。まぁ、安いから仕方がないか。」
フロント棟に足を運ぶと、中国系と思しき男性スタッフが迎えてくれた。前払い制との事で2泊分の代金を払った。前泊したヨットクラブの3分の1ほど、 1泊約3,000円のお手頃価格。キーを受け取り部屋に向かうと、なだらかな傾斜の森の中に20棟前後のコテージが点在しており、目を凝らすと、遠くの木々の間に海が微かに見え隠れした。
その海が微かに見える辺りの高床式コテージの鍵を開けてみると、そう広くはないものの、それなりに清潔で、特に問題点は無さそうに見えた。 シャワーでも浴びて着替えるかと清彦が荷物を置いた時、傍らで「パシッ!」と大きな音がした。音の方を見やると、浩之が左手の上腕部を右の掌で押さえていた。
「きよ、蚊がいるよ。蚊が。」
「入り口のドアを開けた時に入り込んだのかも。」
と言い終わるか終らないか、今度は清彦が「パシッ!」
「パシッ!」
「パシッ!」
「パシッ!」
しばらく同様の音が、幾度となく室内に鳴り響いた。
「ふざっけんなよ!なんでこんなに蚊がいんだよ!」
浩之が叫んだ。
因みに、昨日宿泊したヨットクラブでは一度も蚊に刺されなかったのは何故だろう。 立地的な相違なのか、植栽計画などの工夫の違いなのか、または定期的に殺虫剤を噴霧していたのか、二人にはよくわからなかったが、 結果として「安い宿には蚊が多い」という事で自分らを納得させた。
しばらくして、刺された箇所に猛烈な痒みが押し寄せてきた。日本の蚊と種類が違うのか、痒みの程度が違った。
「きっ、きよっ!キンカンねえのかよ?めっちゃくちゃ痒いぞ、これ!」
こんな事もあろうかと、清彦は、日本が誇る?痒み止め「キンカン」を持参していた。
よくある軟膏と違い、キンカンは、 含まれるアンモニアやトウガラシチンキの刺激が何か痒みに即効性があるようにも感じられ、塗った後の爽快感がたまらなく気に入っていた。
通常なら刺された箇所に「点」で塗るキンカンだが、刺された数の多さもあって、「線」いやもはや「面」状に、腕・脚全体に、まるで日焼け止めのように隈なく塗りまくった。 そんな暴挙の末、二人ともキンカンの意外な効用に気付いた。
「きよ、すんげぇ、涼しくねぇか?」
「確かに、この暑さの中でも爽快な感じだね。」
ちなみにキンカンの効能を見てみると、痒み止めの他、肩凝りにも効くようで、塗布した部分の熱を奪う効果もあるようだ。
「道理で。即席クーラーみたいに使えるかもな。」
などと、二人して、痒くもない箇所にまで体中キンカンを塗り出した結果、気が付くと部屋中にアンモニアの異様な匂いが充満してしまった。
かと言って、 窓を開ければ、更に蚊が侵入してくるに違いなかった。
結局、二人は一度部屋を出て、敷地内の散歩に出かける事にした。 若干薄暗い森の中を抜けて、海に出てみた。 さほど広くない砂浜には人影がまばらで、ビーチフロントのコテージがぽつんぽつんと背後に見えるのみで、 売店もない。
足元の砂には、 昆布やら得体の知れない海藻類が無数に散らばっていて、何か雑然としている。 パラソルの下でカクテルを、というよりは、 漁師が小舟で漁に出て行く、 そんな光景が似合いそうな「地味」な佇まいだった。
「なんか殺風景な海だなぁ。やっぱ、明日もナイハーンに行こうぜ。」
と浩之。清彦も同感だった。