都心から僅か1時間。三井財閥の奥座敷を移築した約1万坪の庭園は、深い緑の森に包まれた別世界。
あのスタジオ・ジブリ、宮崎駿監督のご親戚が経営されている事でも知られ、監督が幼少期によく遊んだという広大な庭園の一角には、作品のモチーフにもなったとされる楠の大木「トトロの木」が鎮座し、ゲストを温かく迎え入れます。
将棋や囲碁などの対局の場に使われる旅館としても有名で、将棋タイトル戦の中でも最高峰と言われる「竜王戦」をはじめ、今までにこの陣屋で行われたタイトル戦は300超。それに関連して、館内には羽生善治氏や大山康晴名人などの対局時の写真も展示されています。
新宿から小田急線・快速急行でおよそ1時間。最寄駅である鶴巻温泉駅で下車します。
駅名には「温泉」と付くものの、あまりに都心からの所要時間が短くて、なんだか温泉旅館に宿泊するという実感がイマイチ湧かないのが正直なところ。。。
駅前のロータリーからテクテクと歩くこと、数分。
やがて車の通りもほとんどない、静かな道を進んでいくと、前方に緑の一帯が遠目に見えてきます。
そして、その緑の木々の袂に近づいていく頃に見に入ってくるのが、、、
本日のお宿・鶴巻温泉「元湯 陣屋」の堂々たる看板。
武田氏の家紋「武田菱」にも似た、割菱紋風のロゴが印象的です。
こちらは敷地への入口脇に備えられた陣屋名物のひとつ、「陣太鼓」。
入口付近に常駐するスタッフが「ドン、ド~ン」と力強く太鼓の音を響かせ、お客様の到着を知らせます。
このような計らいを始めたのは単なる演出的な思い付きからではなく、かつてこの宿の名を広く世間に知らしめた「陣屋事件」なる、60年以上も前に起きた出来事に端を発しているのです。
そんな陣太鼓の音に出迎えられながら敷地の中に足を踏み入れると、真っすぐに伸びる砂利敷きの道が、その先の緑の庭園へと誘います。
程なくして道の右手、いかにも子供たちが木登りをしたがりそうな、ちょっと変わった枝振りの大木が目に入ってきます。
実はこの木、冒頭でも触れましたが、映画「隣のトトロ」で描かれた楠木のモチーフになったとされるもので、 その名も「陣屋のトトロの木」。
幼少期の宮崎駿監督は、よくこの庭園で遊んでいたらしく、思い出の宝庫だったのかも知れません。
一方、砂利道を挟んだ反対側には、何やら竹筒からチョロチョロと流れる水の糸。
実はこれ、飲用できる温泉、つまり「飲泉」なのです。
神奈川県で飲泉の許可を得た源泉第1号とのことで、カルシウム含有量では世界有数の名湯らしいです。
飲用することで、特に消化器系の病に効果があるのだとか。。
更に道を進んでいくと左手に現れるのが、色とりどりの鯉が優雅に泳ぎ回る池と、それを取り囲む手入れの行き届いた美しい日本庭園。
この時点でもう、どこぞの名勝か何かに来ているような感覚です。
う~ん、さすが三井財閥の息が掛かっているだけあります。
新宿からわずか1時間にして、まさに別世界。
道の更に奥には竹林なんかもあったりして、変化に富んだ、実に贅沢な庭園です。
やがて直線の砂利道が終わり、石の階段を数段上がって左に折れた先には、旅館の玄関へと通じる、趣ある小路が続いています。
宿へと誘う道しるべのような飛び石に沿って進んでいくと、ついに旅館の入口に到着です。
意外にこじんまりとした印象を受けます。
館内に入ると、絵巻のような絵画をバックに、ややホテルのような感のあるフロントが現れます。
ロビーラウンジもほどほどに和洋折衷といった感じで、全体的にスッキリとした印象。
その一方で、傍らに目を向けると、こんな感じで、至る所に武具を中心とした、骨董品的な展示品が配され、博物館、または資料館的な雰囲気も同時に漂っているのが、この宿の特色のひとつです。
冒頭でも触れましたが、囲碁・将棋の名立たるタイトル戦の舞台として使用されてきた背景から、対局の様子を撮った写真も数多く展示されています。
こちらなどは、2000年12月に行われた第13期竜王戦の第7局、藤井猛竜王と羽生善治五冠の対局の場面。
ロビーから各客室や露天風呂へと伸びる廊下。
一見、建物内の廊下のように思えるのですが、実際には、敷地内に点在する離れ等をつなぐ、渡り廊下的な通路です。
その両脇の所々には、ご覧のように、武具や古美術品の数々が。
毛利元就や上杉謙信、宮本武蔵ゆかりの貴重な品々もあるようです。
100年以上にも及ぶ陣屋の歴史の中で、代々の当主が少しずつ収集してきた集大成。
ついつい足を止めて見入ってしまいます。
さて、廊下の途中に現れるこちらのガラス張りの格子戸。廊下から庭園への出入り口かと思いきや、実は離れ客室への入口です。
この先はプライベート空間となる為、鍵付きになっていて、意表を突くといいますか、ちょっと不思議な感じです。
ということで、戸を開けた先はもう、いきなり離れの敷地内に入り、石階段の先の玄関へと続いていきます。
宿側では特に「離れ」の客室とは謳っていないのですが、これはまさしく離れです。
何とも言えぬ、趣ある佇まい。
とても旅館の一客室とは思えないほど、周囲の自然に調和しすぎてます。
ちなみに本日宿泊するのは、露天風呂付の「浮舟」という客室。
陣屋の客室数は約20室とかなり少なめですが、実にその半数近い9室までもが露天風呂付客室となっています。
玄関脇から庭を覗くとこれがまた、京都の苔寺かと思うような、しっとりとした情感漂う和の空間。
なんだか抹茶が飲みたくなります。
振り返って、先ほど通ってきた渡り廊下の外観。
周囲360度どこを見渡しても、決して一朝一夕ではしつらえることのできない、独特の空気感が漂っています。
さて、入口の戸を開けると出迎えてくれるのは、玉砂利洗い出しの玄関。
昭和生まれの私としては、なんとも懐かしく、心が和みます。
昔はよく見かけたこんな感じの玄関、最近ほんと見なくなったなぁ(哀)。。。
板張りの廊下の先に続くのは、ゆったりとした8畳の本間。
周囲の緑と、程良く差し込む木漏れ日が、和室という空間の存在感を一層引き立てます。
振り返れば、床の間を飾る生け花と掛け軸。
シンプルで典型的な和の設えは、純和風旅館ならでは。
で、こちらは本間に続く、6畳の次の間。
結果的には荷物置き場と化してしまいましたが、客室でいうなら「ハレ」の場にあたる本間に余計なものを置いて美観を損ねない為にも、「ケ」の空間として必要な間のでしょうね。
場面は少し飛びまして、玄関付近にあるトイレ、、、の手前にある洗面台。
ちなみに右手の間仕切壁の向こう側が厠となっております。
こちらは、次の間に備えられている冷蔵庫。ミネラルウォーターの他にも、ビールや缶チューハイ、ジュース類など、入っているモノは全て無料。
ホテルのミニバーのように伝票書いて自己申告で精算なんて煩わしいこともなく、とても気持ちの良いサービスだと思います。
こちらは次の間の先の洗面所。
陶器のシンクに、歯ブラシや髭剃り、ドライヤーなどそこそこのアメニティーは揃ってます。
そしてこちらが、事前に部屋指定のリクエストまでしたこの「浮舟」の、ウリとも言える幅の広い濡れ縁と、その先に配された趣ある露天檜風呂。
濡れ縁に合わせて、大きく張り出した軒先。
周囲の緑を見渡す小舞台のような空間に配された円形の湯船。
濡れ縁からのボーダーレス的なつながり方と解放感たるや、も~、たまりません。
心地良すぎる!
湯船側から濡れ縁を望む。
思いっきり私見ですが、これほど絵になる日本家屋が客室として利用できるなんて感動モノです。
濡れ縁の傍らには、ブタ型の愛らしい蚊取り線香差し。
見てるだけで、癒される~。
日本の夏、、、キンチョーの夏。。。
縁側に腰掛けて、団扇片手に仰ぎ見る景色はどこまでも自然の緑。
周囲より小高い位置にあるので、気分も爽快。
遠目には竹林も見え隠れ。
実に変化に富んだ庭園です。
濡れ縁のもう一方の端には、庭園へと通じる竹づくりの裏木戸が。
特に注意書きは無いものの、何となく「使用禁止」的なオーラを感じ、開かずの扉として、眺めるに留めました。
こちらは玄関脇の小庭。
こじんまりとして、心落ち着く静寂の空間。
池に浮かぶ蓮のように連なる飛び石と、庭全体を覆う緑の苔、日本家屋ならではの竹垣。
全てが見事に調和しています。
と、場面は変わって、庭園内を散策です。離れから渡り廊下を挟んで反対側に出てみると、いきなり急な上り階段に遭遇。
階段の上方を仰ぎ見ると、なにやら鳥居が見えます。
階段を上りながら振り返ると、さきまでいた客室が、左下方に垣間見えます。
階段を上り切った先には、幾重にも続く鳥居、そして鳥居。。。
陣屋、恐るべし。敷地内に神社まであるとは。。。その名も「湯の上稲荷」。
鳥居の柱に記された数々の寄進者の中には、、、そうです、あの宮崎駿監督のお名前もしっかりと記されておりました。
お稲荷様の更に先の遊歩道を進むと、林間の広場のような開けた場所に出ました。
中央に東屋がある以外、特に何があるわけではないのですが、、、
敷地内マップを見ると、「陣屋 古墳跡」とありますので、何かしら歴史的なものが発掘されたのでしょう(特に興味なし)。
またも場面は変わって、再度、館内へ。
こちらは陣屋で最も格式高い客室、「松風」。
かつて旧黒田藩(黒田家)が、大磯の別邸に明治天皇をお迎えする為、旧大名家の威信をかけて設えた特別室。
大正時代になって、三井財閥の手により、この陣屋へ移築されたそうです。
残念ながら客室内は窺えませんが、3間続き(12畳+10畳+10畳)の贅沢な間取りに、総檜露天風呂付き。
菊の紋が丁寧に掘られた欄間、細やかで芸術的な造作が映える襖の引き手、現代では制作が難しい波打ち硝子の窓など、随所にさり気なく贅を尽くした、奥ゆかしい特別なお部屋。
なお、先に触れた、将棋や囲碁における数々の大勝負の舞台となったことでも殊に有名です。
さて時間を早送りして、夕食時。
お食事処での会席料理となります。
写真は、その食事処の入口に飾られた、宮崎駿監督のイラスト入り直筆サイン。
松明の灯った夜の庭園を横目に渡り廊下を通って、夕食の席へ。
案内されたのは、庭園の池に面した吹抜けの大広間「賑わい亭」。
なんとなく和装結婚式の披露宴が似合いそうな雰囲気。
客席を写そうにも、食事の場で写真を撮っているのが自分ひとりと気づき、他の方々のプライバシー確保の為、ここまででお許しを。
席に着くや否や、まずは日本酒の利き酒セットで飲み比べ。左から「酔鯨」、「初陣の誉」、そして今や一躍有名になった山口県の「獺祭」。
どれがどうのと語れるほど日本酒通ではないのでコメントは控えますが、やはり飲み比べることで、各々の個性が際立って感じられるのがイイですね。
やがて出てきた最初の一品は、頭を揺らす稲穂がなんとも風情を感じさせる、籠盛りの前菜。
手前の小皿・右手の丸くて可愛らしいのが「百合根の団子のうさぎ見立て」。
その隣は「手毬さーもん柿見立て」ってな感じで、見た目もネーミングもほっこり系で、心が和みます。
次に出てきたお椀。透き通った出汁に浸っているのは「東寺巻き」と「銀杏豆腐」。東寺巻きって聞き慣れませんが、辞書の説明では「白身の魚や海老・野菜などを湯葉で巻いたもの」だそうです。
そしてお澄ましの上品な香りと旨み、、、和食ならではの味わいです。
お造りはマグロとハマチ、紋甲イカの三点盛り。さして驚くほどの華があるわけではありませんが、海辺の旅館ではありませんので、お刺身に期待するのは的外れかも知れませんね。
で、次に登場したのが、微妙に縁が焦げた得体の知れない紙袋。。。
「な、なんじゃい、こりゃ~!?」
訝しげに紅葉で封印された口を開けてみると、、、
じゃじゃ~ん!
と中から現れたのは、杉板の上に盛られた少々地味目な料理の数々。
「奉書焼き」という名のこの料理、またもや辞書を引いてみると、「魚介類や野菜・きのこ類などの材料に薄塩をして奉書紙に包んで蒸し焼きにした料理」とのこと。
奥に見える焼き魚は「かますの一夜干し」。その右手は「石川芋田楽」に「揚げ銀杏とむかごの串挿し」、そして手前は「いが栗揚」と、色合いといい、なんとなく秋のムードが漂っております。。。
こちらは合肴として出てきた稲庭素麺。
寄せ豆腐を包み込むように盛られた素麺の佇まいが粋な感じ。
椎茸や蟹、アクセントの三つ葉や生姜と相まって絶妙なハーモニー。
続いて、煮物の登場です。
蓋の上にはなぜか稲穂。しかもところどころパフ状になってる!
女中さん曰く「食べられますのでぜひ!」。
女中さんに勧められるがまま、ポン菓子のような稲穂を味わったところで、蓋を開けてみると、赤・黄・緑・紫と色彩豊かな餡かけがお目見え。
「海老しんじょうの豊年揚げ」をメインに、銀杏煎餅や青唐、茄子が華を加えます。
そして最後のシメの一品はこちら、釜炊きの「栗と小豆御飯」。
これはほんとに美味しかったですねぇ。
地味だけど、絶品!
もー、お腹いっぱいで食べれません!
と言いながらも、別腹なのがデザート。
陣屋の敷地内で採れたミカンを用いたという「陣屋の蜜柑でジュレ(左)」と、「チーズむーす 宮崎マンゴーそーす(右)」。
と献立表通りに記しましたが、カタカナとひらがなのビミョーな使い分けは、どなたのセンスなのでしょうね?
夕食の後は客室に戻って、夜の露天風呂でのんびりと湯浴み。
湯船につかりながら、時おり冷たい飲み物で喉を潤す至福のひととき。。。
適度にライトアップされてはいますが、上方から湯面を照らすような角度の照明が皆無で、湯船の中が真っ暗なのがちょっと残念。
何かが下から出てきそうで、けっこう不気味です、これ。
でも、少し遠目に目を向ければ、ライトアップされた庭園が下方に垣間見えて、夜なのに見晴らしが良いといいますか、とても気分よく温泉を楽しめます。
そして、翌朝。
朝の爽やかな木漏れ日の中で森林浴。
それにしても、この濡れ縁、ほんとに居心地が良くて、寝る時以外はほとんどの時間、この縁側か露天風呂にいたのではないかというくらい。
こんな家に住みたい。。。
客室の露天風呂でも充分に満足なのですが、陣屋には大浴場や共用の露天風呂もあり、せっかくなので、朝の散歩がてら共用の露天風呂へ。
丘の上にあるのでしょうか。少しずつ上り坂の小路を進んでいきます。
庭園内というより、山の中ではないかと思うほど豊かな自然に囲まれています。
やがてちょっとした建物が見えてきました。
周囲の緑に溶け込むように、ひっそりとした佇まいの湯小屋に到着です。
こちらが露天風呂。
他に誰もいないので、すかさず写真撮影。
やや整然としすぎな感のある岩風呂の造りではありますが、周囲の緑が迫りくるような感じで、湯船からの景観はなかなかのもの。
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