夕食が済んでしばらく経った頃、今度はロンがデッキに皆を集めた。ゲームをしようという。浩之は辞退してデッキの隅で飲んでいたが、ロンとソンブーンも含め、残りの7人は参加した。ロンが持参したカードゲームで、少しの説明で何となく概要が掴めるようなシンプルなルールだだったこともあり、多国籍のメンバーながら、それなりに盛り上がった。勝敗が付く度に皆のリアクションも声も徐々に大きくなっていき、こんな山奥で騒ぎ過ぎでなはないかと、清彦は内心ちょっと気になったが、ロンは全く気にしていない様子だ。そう言えば消灯時刻の事にも全く触れていなかった。規律の厳しかった首長族の村とは大違いだ、と内心思った。
そうこうしながら一時間も経っただろうか。日中のハードなトレッキングの疲れもあってか、やがて一人抜け二人抜けして、ゲームもお開きになった。
ロンとソンブーンは別の建物で寝るらしく、挨拶をして階段を降りていった。他の欧米人四人も疲れたのか、早々に部屋に入り眠りに就いたようだった。
デッキに留まった清彦は、傍らで飲んでいた浩之と一緒に飲み直すことにした。
「やっぱ、来てよかったね。」
「だな。」
無数の星が瞬く夜空の下で飲んでいるうちに、プーケットヨットクラブの心地の良いバルコニーが思い出された。
やがて時刻が9時を回ると、清彦はシャワーを浴びて来る事にした。浩之はまだデッキにいると言う。 懐中電灯を持って、階段を降り小さな道を下って行くと、昼間、ロンから説明を受けていた、それらしき細長い小屋が見えた。近付いてみると、扉が四つ横並びになっており、それぞれ開けてみると、そのうちの二つがトイレ、残りの二つがシャワー室らしき作りになっていた。中に入って、何か動く可能性がありそうなものを適当にいじっているうちに、ちゃんと水が出てきた。どのように水を貯めているのか、造りこそ原始的な感じではあったが、汗を流すという目的を忠実に満たしていた。
清彦がシャワーを終えて宿泊棟に戻ろうとした時、暗闇の中、懐中電灯を照らしながら、誰かがこちらに近づいて来るのが見えた。時間も時間なのでとっさに身構えてしまったが、よく見るとガイドのロンだった。清彦の顔を確認するや、なぜか途中で来た方向に引き返すように身を翻すと、「こっちについて来い」といわんばかりに後ろ手で手招きしながら、人目を避けるように暗闇の茂みに向かって歩いていった。
ロンが立ち止まった木の陰まで清彦が後を付いていくと、彼は振り返り、ヒソヒソ話のような声量で、清彦に語りかけてきた。
「これから村人のじいさんの所に遊びに行くんだが、一緒に来るかい?ここで待ってるからお兄さんも誘ってきなよ。」
そう、浩之と清彦が兄弟であるという事を他の参加メンバーは知らなかったのだが、ガイドであるロンだけは参加者リストなどから、その事を知っていた。
「それは嬉しいね、ぜひ! 兄貴に聞いてすぐ戻ってくるから。」
小声で話す内容でもないだろうと訝しがりながら、清彦は足早に宿泊棟のデッキに戻った。チビチビとウィスキーをやっている浩之に、事の次第を話すと、期待通りの返事がかえってきた。
「いいねぇ~、いっちゃおうぜ!」
待っていたロンに合流すると、昼間は通ったことの無いような小道を、ロンの懐中電灯と月明かりだけを頼りに二人して付いていった。なんだか探検にでも出かけるようなワクワクした気分が、二人の足取りを軽くさせた。
やがて、宿泊棟とは全く異なる、高床式でもなんでもない納屋のような無造作な小屋の前で、ロンは立ち止まった。見る限り、周囲には他の建物は無いようだった。ロンが扉を開け、中にいる誰かと短いやりとりをしたかと思うと、二人に手招きしながら言った。
「Imazato-san, Come in !」
中に入ると、これまた何の変哲もない、窓の一切無い空間が、オレンジ色のほのかな光のもとに浮かび上がった。
床のところどころにクッションが散らばり、部屋の奥には、何か職人の小道具のような得体の知れない雑多なものが無造作に置かれ、それらに囲まれるように、老人が鎮座していた。
今里兄弟を見て前歯の無い微笑みを返したその老人は、やたらと色が黒く、痩せこけていた。
「二人ともその辺に適当に座って。」
ロンに促され、この古めかしい部屋には不似合いな現代風のクッションの上に、二人して腰を落とした。
「オレはねぇ、ここだけの話、西洋人がキライなんだよ。」
老人の傍らに腰を下ろしたロンが、開口一番に言った。
「アイツらときたら、みんなワガママで、何かと人を見下したような態度が頭にくる。仕事じゃなければ付き合いたくない連中だね。」
そう言うと、改めて部屋にいた老人に二人を紹介し、続いて、そばに置いてあった蒸留酒のような飲み物をカップに注いだ。それが何であるかの説明もないまま二人に差し出すと、ロンは話を続けた。
「で、同じアジア人同士ってことで、君達二人だけに声掛けた。
せっかくだから貴重な体験はどうかなと思ってね。ただし、ヤツらには絶対に内緒だ。」
ふと清彦が奥に目をやると、老人が何やら「職人スペース」で手を動かしていた。床から20㎝くらいの木製テーブルの上、小さなすり鉢のような器の中で何かをすり潰しているように見えた。
二人して老人の近くに寄ってその器の中を覗くと、まるで梅干と一緒に漬け込まれているシソをすり潰したような見た目の、赤黒く湿った、得体の知れない塊が入っていた。
「まさか!?」 浩之が声を上げた。
「Hey, hey, look at this color, and smell it. it's very very fresh, isn't it?」
ロンが二人の顔を覗き込むように言った。
塊に鼻を近付けてみると、喩えようもない独特の甘い香りが感じられた。
リアクションに躊躇しながら、二人が固唾を呑んでそのまま老人の手の動きを見守っていると、何か白い錠剤のようなものを砕いて、その塊に混ぜ込んだ。
「今混ぜたのは何?」
清彦が問いかけると、ロンが答えた。
「頭痛薬だよ。症状を和らげるのにね。」
「???」
何を言っているのか理解できないまま、ロンが続けた。
「じゃぁ、まずはオレがやってみるから、まぁ、見てなよ。」
ロンがごろんと横になったところには、籐できたような円筒状の高枕が置かれ、敷布団のようなものが畳一畳分くらいの範囲に敷かれていた。ロンが横向きになると、例の老人が先ほど混ぜ合わせていた赤黒い塊の一部をつまんで、長いキセルのようなものの先に詰め込んだ。そして立ち上がったかと思うと、横になっているロンの顔の近くに座り直し、キセルの吸い口をロンの口元に添えたかと思うと、その反対側の先端をライターであぶり始めた。
やがて、焙られた塊が「グプッ・グプッ」と煮詰まったシチューのような音を立て始めると、先ほど嗅いだ甘い香りが周囲に広がってきた。 ロンはキセルの吸い口から大きく息を吸い込んだかと思うと、数秒ほど息を止めた後に、今度は長くゆっくりと息を吐き出していった。そんな動作を3回ほど繰り返しただろうか、ロンはゆっくりと上体を起こし、浩之に目を向けて言った。
「Next, your turn.」
浩之が横になると、さっき老人がロンに対してしていたように、今度はロンが浩之のくわえたキセルの先端にライターの火を近付けた。
浩之は大きく息を吸い込み、ロン以上に長く10秒ほど息を止めた後に、静かに息を吐き出した。
ふと清彦がロンの顔に目をやると、何やらトロ~ンとした目付きで、笑ってないのに笑っているような不思議な表情で、彼の視線は宙に浮いていた。
「Next, you.」
予想外の展開にドギマギしているうちに、やがて清彦の番となり、先の二人の例に倣って、床に横になった。
高枕に頭を乗せると、急に低くなった目線から見上げた空間の見慣れなさからか、得体の知れない不安が押し寄せてきた。
ガイドであるロンを信用していないわけではないが、他人に全てを委ねているような、病床に臥せる患者のようなこの状況に、恐怖すら感じ始めていた。
<オレはいったいどこにいるんだ? 何をしているんだ? 無事に日本に帰れるのか?>
ちらりと浩之を見やると、やはり先ほどのロン同様、いつもの浩之らしからぬおぼろげな表情で、立てた膝をゆっくりと揺らしていた。
くわえたキセルの先に、ライターを持ったロンの顔が浮かび上がった。
そして催眠術にでも掛けるかのように、囁くような口調で言った。
「Relax... Relax... Take it easy...」
清彦が「儀式」を終えて上体を起こすと、ロンが二人に向かって説明を始めた。何でも、この後何度か、強烈な吐き気に襲われるが、3度目くらいからは徐々に慣れ始め、不快感が消えていくから心配するな、というような内容だった。
やがて、同様の儀式を3回くらいずつ繰り返した辺りで、浩之が突然立ち上がったかと思うと、部屋の外に足早に出て行った。 ロンの言っていた症状が出たらしい。しばらくして浩之が戻ってきたかと思ったら、今度はロンが部屋から出て行った。
「いやぁ~、きたわ、モーレツな吐き気が。。。」
そう言って浩之は、異常とも思えるほどのスローモーションで、ゆっくりと床に腰を下ろした。
そして程なくして、清彦も二人と同様の洗礼を受けることになった。込み上げる不快感にたまらず部屋から出て、小屋の外の茂みでゲーゲーやっているうち、ふと大学時代の新歓コンパを思い出した。とんでもなくマズい安酒のイッキ飲みを先輩に強要され、気付くと道端で背中を摩られて哀れな姿を晒していたあの頃。。。
でも今の状況はそんなコンパでの粗相とは異なり、無様な姿を誰に見られるでも無く、ヘンな話だが、暗闇で思う存分に「雄叫び」を上げて嘔吐できる。闇夜に遠吠えする狼にでもなったかのような気分で、妙な開放感を覚えたのも事実だった。
さてフラフラしながら清彦が部屋に戻ると、今度は浩之がいない。
それぞれ吐き気のインターバルは徐々に短くなっていき、いつしか3人共に部屋にいる状態がほとんど無くなってしまった。
体感的には2時間ほど過ぎた頃だろうか。
皆、もやは吐くものなど胃液以外に無いというくらい嘔吐を繰り返した後、徐々に皆の状態も落ち着き、やっと部屋の中に3人が勢ぞろいした。
片膝を立てて床に腰掛けた3人が、上体をゆらゆらと揺らしながら、部屋の中央に陣取った時、ロンが、自分の緩んだ表情を必死に引き締めるようにして、「キッ」と目を見開きながら、二人に向かって言った。
「いいかい?兄弟、友達として、これだけは言っておく。
今日ここでのことは、この場限りの事として一切忘れた方がいい。この村では、ここにいる爺さん達までの世代にとってはごく普通の、古くから続く文化・習慣のひとつであって、君達は特別にそれを体験したに過ぎない。でもそこを履き違えちゃいけない。この後、チェンマイ、バンコク、どこに行くのかは知らないが、ここ以外の地で誰に何を勧められようとも、絶対に話に乗ってはダメだ。」
実際には英語で伝えられたそのロンの忠告に含まれていた「NEVER」という言葉が、その数日前、首長族村へのガイドだったジーンに何度も強調された同じ言葉とリンクして、二人の心に深く刻み込まれた。
「タイの都市部では、タクシーの運転手から何から、誰が警察とグルで、おとり調査に協力しているか、わかったもんじゃない。タイでは、そんなんで捕まって終身刑になる外国人が後を絶たないんだよ。二人とも、絶対にそんなのに引っかからないでくれよな。」
そう言い放つとロンは、明日のガイド業務に差し支えるから、今日はここまでにしようと付け加えて、気力を振り絞るようにして立ち上がった。もちろん兄弟二人も頷いて、そこまで寝ずに3人の動向を見守り続けてくれた老人に深いお辞儀をしてから、その小屋を出た。
既に夜中の2時は回っていたのではないだろうか。
手を振りながらフラフラと遠ざかっていくロンを見送りながら、今里兄弟は、なんとも言えない倦怠感と脱力感に襲われながら、宿泊棟へと戻った。
宿泊棟の階段を上ると、部屋の中は真っ暗だった。清彦が持っていた小型蛍光灯をデッキの床に置くと、何事も無かったかのように、またもや兄弟二人で、ぬるいウィスキーをストレートで飲み始めた。
星空を虚ろに見上げながら、二人は何を話すでもなく只、デッキに佇んだ。それが無性に心地良かった。
実際のところ、えもいわれぬ倦怠感ゆえに、1ミリたりとも体を動かしたくなかった。なのに矛盾するように目だけは冴えている。そして、そんな状態が永遠に続くのではないかとすら、その時の二人には思えた。
こうして二人は、時間が過ぎていくという感覚を喪失したまま、デッキの上で、ろくに目を瞑ることも無く、いつしか朝を迎えてしまったのだった。
暗闇から徐々にくっきりと浮かび上がっていくデッキ対岸の山の稜線が、そんな二人には不思議と神々しく見えたのだった。